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午後のプログラム「ブックトーク」

ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D.ハンゼン著

『ゲッベルスと私ーナチ宣伝相秘書の独白』(紀伊国屋書店刊)より抜粋

主人公 ブルンヒルデ・ポムゼルについて

1911年生まれ。1933年にナチ党員になり、ベルリン国営放送局で秘書として働く。1942年から国民啓蒙・宣伝相ゲッベルスの秘書の一人として終戦までの3年間勤務。終戦後はソ連軍に捕えられ、その後5年間、複数の特別収容所に抑留された。解放後はドイツ公共放送連盟で60歳まで勤務。2017年1月27日に106歳で死去。

全般的に言えば、ある種の輪(サークル)に何も接点を持たない人は、ユダヤ人迫害のことをほとんど気づいていなかった。私にしても、近所の親切なユダヤ人や父の仕事の取引先を別にすれば、ユダヤ人の知り合いはごくわずかだった。

ただ一人、エヴァ・レーヴェンタールとはとても親しくしていた。エヴァの家族は貧しかった。ユダヤ人迫害の始まる前の年から一家はすでに困窮していて、エヴァは文字通りぎりぎりの生活を送っていた。(p81, 82)

エヴァは、私の家に頻繁に来るようになっていた。母さんもエヴァの困窮を知っていたから、パンをもたせてあげたりしていた。でもそれは、純粋に人道的な理由によるものだった。政治の世界で何かが起きているせいで、エヴァの生活が危険にさらされているだなんて、考えもしなかった。人々はただ、明るくのんきな生活を続けていた。最初のころは、すべてが順調だった。みんなのお給料が上がった。私たちはけっしてお金持ちではなかったけれど、ちょっとしたものなら奮発して買えるようになった。でも人々は、自分のことばかりかまけていて、貧しい人のことにいつもは思いが至らなかった。(p84)

エヴァとはまだかなり長いあいだ音信があったけれど、彼女の置かれた状況について本人にじかに聞いたりはできなかった。聞いてどうなるものでもない。だから、そういう問題については話さなかった。それにうちの近所では、ユダヤ人が消えるという事態はまだ起きていなかった。でも、いったん始まったらあっというまだった。

 

ユダヤ人が移送される場には、ただの一度も出くわさなかった。話によればベルリン中の通りを、ユダヤ人を詰め込んだトラックが走っていたというし、それを否定するつもりはないけれど、私自身はそういう車を一度も目にしなかった。ともかく、シュテグリッツの当たりでは見かけなかった。郊外の小さな町には、そんな車はいなかった。一九三三年以前は赤色戦線〔ドイツ共産党が保有していた準軍事組織〕の車も、一台も走っていなかった。あのあたりでは、そういうことはまるで起きていなかった。政治に無関心な土地柄で、人々はそうやって生きてきた。ベルリンの端っこの地区だから、起きているものごとからもあまりに遠かった。

 

そして、エヴァは突然いなくなった。私たちにはどうしようもないことだった。彼女はきっと、どこかに連れ去られた人の側に入ってしまったのだ。でも、人々が連れ去られたのは、東部の空っぽになった農園を埋めるためだったと聞いたわ。戦争の起きている場所にいるより、むしろそのほうがましなのではないかと私たちは思っていた。そして、もしエヴァが強制収容所にいるのなら、そのほうが身は安全なのではないかとも思った。強制収容所で何が起きているのか、誰も知らなかったから。

 

人々は多くを知りたいとは、まるで思っていなかった。むしろ不用意に多くを背負い込みたくないと思っていた。物資の供給は日に日に逼迫(ひっぱく)していて、人々は自分の生活を守るだけで手いっぱいだった。(p85, 86)

エヴァの例はおそらく氷山の一角だった。同じようにユダヤ人を友人として支えている人は、きっとたくさんいたのかもしれない。そのせいで、身を危険にさらした人もいた。そういうことを、あとで私は知った。今の人たちはよくこう言うわ。もしも自分があの時代にいたら、迫害されていたユダヤ人を助けるためにもっと何かをしたはずだと。彼らの言うことはわかるわ。誠実さから出た言葉なのだと思う。でも、彼らもきっと同じことをしていた。ナチスが権力を握ったあとでは、国中がまるでガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身がみな、巨大な強制収容所の中にいたのよ。ヒトラーが権力を手にしたあとでは、すべてがもう遅かった。そして人々はみな、それぞれ乗り越えなければならないものごとを抱えており、ユダヤ人の迫害だけを考えているにわけにはいかなかった。ほかにもたくさんの問題があった。戦地に送られた親族の運命も、心配しなければならなかった。だからといってすべてが許されるわけではないけれど。(p172)