なぜ、ホロコーストは起きたのか

第二次世界大戦のとき、ナチ・ドイツおよび占領下のヨーロッパで、「ユダヤ人」という理由で約600万人の人々が殺されました。その内、約150万人が15歳以下の子どもでした。他にも、障がい者やシンティとロマ(「ジプシー」と呼ばれた人たち)も犠牲となりました。

あれから70年以上の年月が経ちます。国連は、国や民族の枠を超えてすべての人びとがホロコーストの歴史から人間の差別や偏見、憎しみの恐ろしさを学ばなければならないと訴え、加盟国に対して、教育の場で取り上げようと呼びかけています。

目 次

1. ヨーロッパのユダヤ人

2. 不況に苦しむドイツ              

3. なぜユダヤ人が憎しみのまとに?

4. 合法的に権力を握ったヒトラー      

5. 差別と法律

6.    教育

7. 世界の無関心              

8. 第二次世界大戦のはじまり

9. ヨーロッパに広がる虐殺 

10. 絶滅収容所

11.  命の選別

12.  ユダヤ人の抵抗        

13.  救いの手を差し伸べた人もいた

14.  収容所からの解放

15.  ナチの犯罪を裁く

​16.  歴史から学ぶということ

 

ヨーロッパのユダヤ人​

 アジアとアフリカとヨーロッパがまじわる中東地域が、ユダヤ人のふるさと。約2,000年前(ローマ時代)に国が滅ぼされ、ユダヤ人はヨーロッパ全土に散らばって暮らし始めました。

 ユダヤ人の宗教、ユダヤ教は、世界でもっとも古い宗教のひとつです。ユダヤ教から生まれたキリスト教が独自の宗教として発展し、ヨーロッパに広まっていくと、少数派のユダヤ教徒は、宗教や文化がちがうことを理由に、嫌われたり、差別を受けたりすることがありました。

 それでも、長い歴史の中で、ヨーロッパのキリスト教社会に溶け込んで暮らしていたユダヤ人もいれば、信仰の深い人もいました。商人として活躍していた裕福な人もいれば、貧しい人もいて、その姿は多様でした。

NPO法人ホロコースト教育資料センター

ヨーロッパのユダヤ人居住史

(地図をクリックすると拡大します)

 

不況に苦しむドイツ

 第一次世界大戦(1914-18年)に負けたドイツは、戦勝国が取り決めたヴェルサイユ条約によって、巨額の賠償金の支払いを命じられ、重要な産業地帯をとりあげられ、経済も社会も混乱していました。

 1929年の世界恐慌によってドイツの経済は大打撃を受け、失業者が町中にあふれます。人びとの不安や不満は頂点に達していました。

 

 そのような社会不安を背景にして、アドルフ・ヒトラーがナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)を率いて政治の表舞台にあらわれます。ヒトラーは、「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び、人々の憎しみをあおりました。

 

なぜユダヤ人が憎しみのまとに?

 ユダヤ人に対する差別は、中世以来、すでにヨーロッパのキリスト教社会に根付いていました。キリスト教徒にとってイエス・キリストは救世主。それを認めないユダヤ人は、「キリストを十字架にかけて殺した罪びと」のレッテルをはられた。信仰の違いから忌み嫌われ、キリスト教への改宗を拒めば、追放、虐殺されることもありました。

 ユダヤ人は、土地を所有したり、職人の組合(ギルド)に加入したりすることを許されませんでした。すると、キリスト教徒が忌み嫌う「金貸し」の仕事をユダヤ人が担うようになり、「金の亡者」などという偏見が生まれます。経済的に豊かになるユダヤ人もいましたが、それはほんの一部にすぎませんでした。

 十八世紀末、フランス革命によって、ユダヤ人にも平等な市民権が与えられました。けれども、ユダヤ人のキリスト教社会への同化が進むと、新しい差別が生まれます。それは、ユダヤ人を「劣った人種」とみなすものでした。ユダヤ人がヨーロッパ社会に同化すれば「優れた人種」であるアーリア人の血が汚される、という極端にゆがんだ思想でした。このようにしてヨーロッパに深く根ざしていた反ユダヤ主義を、ヒトラーは政治的に利用しました。

この人たちもユダヤ人。

誰かわかるかな。

 

合法的に権力を握ったヒトラー

​独裁への一歩

 ヒトラー率いるナチ党はわずか12議席を占める小さな政党でしたが、世界恐慌の翌年、1930年9月の総選挙で、議席数を107名に増やし、国会で第二党に躍進しました。

 1932年6月までに失業者の数は600万人を超え、不安に満ちた社会を背景にして、同年7月の選挙ではナチ党はついに第一党となりました。1933年1月、ヒンデンブルク大統領の任命により、ヒトラーは首相に就任しました

 政権を握ってまもなく、3月には「全権委任法」が国会を通過した。巧みに反対勢力を排除して、ヒトラーは「総統」として独裁的な権力を手に入れました。

投票所で投票するヒトラー

 

差別と法律

 1933年4月、ドイツ全土でユダヤ人の経営する商店にたいしてボイコット(不買運動)がおきました。ナチ体制の敵とみなされた者やユダヤ人は「職業官吏再建法」のもとで公職から追放され、「編集者法」によって報道の場からも締め出されます。5月には、ユダヤ人やその他の「好ましくない」とされた作家らの本が燃やされました。

 1935年9月、ユダヤ人の公民権を奪い、「ドイツ人の地を守る」ためにユダヤ人がユダヤ人以外の者と結婚することを禁じる法律が、ナチ党大会開催の地ニュルンベルクで可決されました。のちに「ニュルンベルク人種法」と呼ばれます。

 

​教育

右は、1938年にドイツで出版された絵本『毒キノコ』の1ページです。「食べられるキノコと毒キノコを見分けるのが難しいように、盗人で犯罪人のユダヤ人を見分けるのは難しい」と母親が息子に教えています。

左の絵本では、「純粋」で「誇り高く美しい」ドイツ人の若者が描かれている。いずれも、学校で副読本として子どもたちが読んでいまた。ユダヤ人に対する憎しみをあおる一方で、「強いドイツ」「民族の優秀性」など大衆の耳に心地よい言葉を使いました。

 

逃げ場のないユダヤ難民

 1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。追いつめられたドイツとオーストリアのユダヤ人は国外への逃げ道を探しました。7月、ヨーロッパにあふれだしたユダヤ難民の問題を協議するため、32カ国の代表がフランスのエヴィアンに集まりました。しかし、難民の受け入れを申し出た国はドミニカ共和国ただ1カ国でした。

 1938年11月9日~10日未明、ナチ突撃隊によって、8千以上のユダヤ人の商店やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が襲われ、破壊されるという「帝国ポグロム(迫害)の夜事件」が起きました。九十数名のユダヤ人が殺され、暴動の翌日に逮捕されたのは、被害者であるユダヤ人でした。約3万人が強制収容所へ送りこまれました。

 

 翌年5月、約900名のユダヤ人を乗せた客船セントルイス号がドイツのハンブルクからキューバに向かった。乗客たちは上陸の許可書を手にしていたが、キューバ政府は直前にそれを無効と宣言した。何も知らされていなかった乗客たちは、ハバナ港に降り立つことも許されず、立ち往生が続いた。10日後に結局、セントルイス号は乗客を乗せたままヨーロッパに送り返された。その後、イギリス、フランス、ベルギー、オランダが難民を受け入れることになる。しかし、イギリスに上陸した者以外は、ナチ占領下でほとんどがホロコーストの犠牲となった。

 

 

第二次世界大戦のはじまり

 1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。ナチスの迫害の手は、ヨーロッパ全土に暮らすユダヤ人へ及んでいきました。ナチ占領下でユダヤ人に対する差別の法律がつくられ、ユダヤ人は「ダビデの星」の着用を命じられた。

 

 各地で、ユダヤ人を隔離するための大小の居住地区「ゲットー」がつくられた。3メートルを超える高さの壁や鉄条網で仕切られた狭い区域に強制的にユダヤ人は住まわされた。

 ポーランドのワルシャワでは、市のわずか2.4%の面積に約45万人(市人口の30%)が詰め込まれた。下水設備もなく、ゲットー内は不衛生で病気が蔓延し、飢えに苦しみながら、多くの人々が死に追いやられた。

 

 

激しさを増していく虐殺

 1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に攻め込みます。ドイツ軍のあとに続いた「特別行動部隊」(アインザッツグルッペン)が、ソ連領内のユダヤ人の村を襲い、大人も子どもも残らず狩り集めて銃殺しました。殺害の証拠を隠すために、死体は穴に投げ込まれました。

 1942年1月、ナチの高官や外務省、法務省の代表らがベルリン郊外のヴァンゼーに集まりました。いかにして効率よくヨーロッパ全土のユダヤ人を殺害するか。その計画を確認することが目的でした。彼らの間で、この計画は「ユダヤ人問題の最終解決」と呼ばれました。このヴァンゼー会議は、出席者15名のうち過半数が博士号を持つエリートでした。

 

「死の収容所」がつくられた

 殺人を目的としたアウシュヴィッツ収容所がナチ占領下のポーランドにつくられた。ここで、ヴァンゼー会議の4カ月前にすでに最初の毒ガスでの殺害が行われていた。

 ほかにも、5カ所の絶滅収容所がポーランドに建設され、ヨーロッパ全土から貨車に詰め込まれたユダヤ人が次々と送りこまれた。

このときナチスは、ユダヤ人たちが恐怖や不安から騒いだりしないように、労働のための「東への再定住」だという偽りの説明をした。

 

 

命の選別

​労働に「利用できるもの」と「利用できないもの」

アウシュヴィッツに着くと、人びとはただちに「選別」される。子どもや老人らの多くは、労働力として「利用できないもの」とみなされ、ガス室に送り込まれた。それは、「シャワー室」と見せかけた部屋だった。裸にされた人びとがそこに入ると、青酸殺虫剤のチクロンBが投げ込まれて、殺害された。

死体は焼却炉で燃やされた。遺体を燃やす作業も、「特別労務班」とよばれるユダヤ人に課せられた。殺人が、まるで工場での流れ作業のように行われていた。

若く、体力が残っているものは、労働力として選び出された。髪の毛をそられ、腕には名前の代わりとなる番号を入れ墨された。

粗末な食事しか与えられず、朝から晩までの奴隷労働や看守の暴力などで人びとは力つきていく。「選別」が繰り返され、「利用できないもの」とみなされた者はガス室へ送られた。

(写真)アウシュヴィッツに到着して、貨車から降ろされ(上)、選別される人びと(下)

 

 

抵抗したユダヤ人もいた

抵抗運動が起きたゲットーや収容所もあった。ワルシャワ・ゲットーでは、ユダヤ人が次々と東の絶滅収容所へ移送されていく一方で、残された人びとは、絶望のなかで蜂起を決意した。かき集めた粗末な武器を手にして、戦車で武装したドイツ軍に立ち向かった。1943年4月から、戦いは数週間にもおよんだ。しかし、同年5月、ゲットーは破壊され、約5万人のユダヤ人が検挙され、その多くが絶滅収容所に送られた。

アウシュヴィッツやトレブリンカなどの絶滅収容所でも、ガス室を爆破するなどの抵抗運動が起きた。しかし、組織化された強大なナチの武装勢力を前にして、ユダヤ人はあまりにも無力だった。

(写真)ワルシャワゲットー蜂起のあと、収容所へ連行されるユダヤ人たち

 

 

​助けた人たち

 ヨーロッパ各地で、ナチ・ドイツ占領軍に協力した地元住民もいたが、ユダヤ人を助けたひとにぎりの人びともいた。個人で、家族で、または町ぐるみで、ユダヤ人をかくまったり、救援物資を届けたりした。見つかれば、自らの命も危険にさらされる行為だった。現在では、彼らは「諸国民の正義の人」と呼ばれ、約2万6千人がその勇気を称えられている。

オスカー・シンドラー

ドイツ人の実業家。ポーランドのクラクフで経営する工場で、多くのユダヤ人を雇い入れ、保護した。1944年、ゲットーが閉鎖されると、ドイツに新しい兵器工場をつくり、ユダヤ人たちを連れ帰る。手ちがいから、労働者の妻や娘、母親たちがアウシュビッツへ送られるが、それら300名の女性たちを収容所から救い出した。

ラウル・ワレンバーグ

スウェーデン人外交官。ハンガリーのブダペストで、ユダヤ人に中立国スウェーデンのパスポートを与えて保護した。ある時は、移送列車を追いかけて停車させ、ユダヤ人を助け出すなど、自らの命の危険もかえりみずに奔走した。10万人のユダヤ人を救ったと言われる。1945年1月、行方も生死も不明となる。ソ連の刑務所で死亡したとされている。

ミープ・ヒース

アンネ・フランクとその家族ら8人の隠れ家生活を助けた女性。食料や生活に必要な物資を届けて、外の ニュースを伝え、励まし続けた。隠れ家が見つかり、アンネたちが逮捕された後、残されたアンネの日記を大切に守り、ただ一人生きのびたアンネの父オットー・フランクに手渡した。

 

収容所からの解放

ドイツの敗戦が間近になっても、いったん動き出したユダヤ人殺害のシステムは簡単には止まらなかった。しかし、1945年1月27日、アウシュヴィッツは東から進撃してきたソ連軍によって解放された。連合軍の兵士たちが収容所にたどりつくと、そこには多くの死体が放置され、伝染病が猛威をふるい、かろうじて生きのびた人びとが残っていた。解放直前に、動ける者はドイツ本国の収容所へ強制的に徒歩で移動させられた。これは「死の行進」とよばれ、途中で衰弱したものは置き去りにされたり、射殺されたりした。

1945年5月、ドイツは降伏し、ヨーロッパでの戦争が終わった。連合軍は、地元のドイツ市民に収容所の死体を埋葬することを強制した。収容所から解放された人びとのなかには、家族を失い、家も破壊され、故国に戻れない者も多かった。ポーランドでは、故郷に戻ったユダヤ人が襲撃にあい、追放される事件が起きた。戦前の故郷に未来はないと考え、パレスチナやアメリカ、カナダ、オーストラリアを目指して、ヨーロッパの地を去ったユダヤ人も多かった。

 

今も続く、ドイツみずからによる裁き

 1945年11月、米英仏ソの連合国によるニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ナチ・ドイツの犯罪が裁かれた。ヒトラーはすでに自殺をしていたため責任を免れた。21名のナチスの指導者たちが被告となり、19名が有罪とされた。

 パレスチナに建国されたイスラエルでは、新しい力強いユダヤ人の国づくりを目指して、ホロコーストを生きのびた人たちは自らの苦しみを打ち明ける機会は少なかった。1960年、南米に逃れていた親衛隊将校アドルフ・アイヒマンがイスラエルで裁判にかけられ、絞首刑になる。これをきっかけに、イスラエルの社会でホロコーストについて語られるようになった。

 その後もドイツは今日まで、虐殺に関わった者の訴追を続けている。1963年にフランクフルトで行われた「アウシュヴィッツ裁判」は、ドイツがみずからの手でナチスの犯罪人を法定に引き出した裁判として画期的なものだった。多くの西ドイツの市民が傍聴し、絶滅収容所での実態を知ることになった。2016年2月、アウシュヴィッツの看守だった94歳の被告に対する裁判が始まっている。

 

歴史から学ぶ

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目である」

 

1985年、当時のドイツ大統領ヴァイツゼッカーの言葉です。ナチスの政権獲得から80年にあたる2013年には、メルケル首相が次のようなスピーチをしました。「ナチスが生まれたのは、一部のエリートだけの責任ではない。だまっていた市民にも責任がある」。ホロコースの歴史をドイツでは繰り返し思い起こし、なぜ起きたのかを考え、学び続けています。

ナチ時代の歴史を学ぶドイツの高校生

©Kokoro

Kokoroおすすめ

『「ホロコーストの記憶」を歩く

   ~過去をみつめ未来へ向かう旅ガイド』

石岡史子、岡裕人著 (子どもの未来社刊)

  

7ページで分かりやすくホロコースト史の流れをまとめています。現在のドイツがどのようにこの歴史を記憶しているか、その姿と合わせて、ぜひ読んでみていただきたい一冊です。
 

ドイツの「今」と「歴史」と両方、高校生や大学生にも​ぜひ読んでほしいです!

『なぜ、おきたのか - ホロコーストのはなし』

クライブ・ロートン著 / 大塚信訳・監修 / 石岡史子訳

岩﨑書店刊

 

  小学校高学年から読める写真絵本です。

黒柳徹子さん推薦の言葉より
 

「この本を通して、アンネ(アンネ・フランク)の苦しみを理解する力を身みに付けてほしいと思います。それが他人の痛みを理解し、いじめや差別をなくすだけでなく、平和を築く力になると信じているからです。」

ハンナのかばん
アンネ・フランク
ホロコースト

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