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用語集 vocabulary

ハンガリーの首都。西側のブタと東側のペストを二分するように街の中央にはドナウ川が流れ、1873年に合併したことで現在のブタペストとなった。その街の美しさから、「ドナウの真珠」と称される。

​ナチスによるホロコースト以前には、約20万人のユダヤ人がブダペストに暮らしており、ハンガリーのユダヤ人社会の中心であり、ヨーロッパのユダヤ人の中心都市の一つでもあった。

ブダペスト
​ブダペスト

ユダヤ教の礼拝・集会などに用いられる施設・建物。世界に散り散りとなったユダヤ人たちの宗教的・文化的中心となっている。1938年11月9日から10日にかけての夜に引き起こされたポグロム「水晶の夜(クリスタルナハト)」事件では、ナチ突撃隊と親衛隊によってドイツ全土の何百ものシナゴーグに火が放たれた。ブダペストにある「大シナゴーグ」は、1859年に建てられたもので、その名の通りヨーロッパで最大のシナゴーグ。1944年のドイツ占領以降は、収容所に移送されるユダヤ人の集合場所となり、ゲットーの敷地内に含まれた。

シナゴーグ
シナゴーグ

移送の組織者として、ヨーロッパのユダヤ人虐殺において中心的な役割を果たした。1934年10月以降、ベルリンの保安本部内の「ユダヤ人課」で活動し、ドイツからのユダヤ人追放に関わった。1938年から1939年にかけて、ウィーンとプラハの「ユダヤ人国外移住本部」の長を務めた。1939年以降は「ユダヤ人案件・追放課」を率い、移送されるユダヤ人の数を決定した。1944年3月、彼はブタペストの「アイヒマン特別部隊」長官として、ハンガリーの43万7000人のユダヤ人のアウシュヴィッツ等への移送を担当した。終戦後、アルゼンチンに逃亡するが、1960年にイスラエル諜報機関員に拘束、移送され、1961年12月、イスラエルで死刑判決を受け、翌年6月1日に処刑される。

​アドルフ・アイヒマン
​アドルフ・
アイヒマン
ミクローシュ・ホルティ
ミクローシュ・
​ホルティ

​ハンガリーの海軍軍人で、第一次世界大戦以降の国王不在のハンガリー王国で、1920年、元首にあたる摂政に就任。保守的な民族主義者であったが、ヒトラーの特にソ連に対する戦争には否定的で、ハンガリーが戦争に巻き込まれないよう、1944年以降、連合国側との休戦協定を模索していた。しかしそれがヒトラーに知れると、矢十字党に政権を奪取されてしまう。ナチ・ドイツの反ユダヤ政策には特に懐疑的で、1944年7月、ブダペストからのユダヤ人の移送の停止命令を出した。それから10月の矢十字党支配までの間、ブダペストのユダヤ人は比較的安心に暮らせていた。

1935年から45年にかけて存在したハンガリーのファシスト・反ユダヤ政党。ナチ党を模範として結成されたため、党の思想もナチズムに類似している。一時はホルティ政権により活動を禁止され、党創設者のサラーシ・フィレンツは逮捕されたが、ナチ・ドイツの強力により1940年にサラーシは釈放され、1944年3月のドイツ占領により党の活動が合法化される。同年10月、ナチ・ドイツの作戦によりホルティが退位、サラーシが首相に任命され政権を握ると、ブダペストのユダヤ人移送と虐殺が実行に移された。戦後は、サラーシを含む党員の多くが戦犯となり、処刑された。

矢十字党
矢十字党

戦争が始まると、ハンガリーのユダヤ人成人男性は戦地へ強制的に徴用され、壕掘りなどの労働をさせられた。非武装で危険な戦地での過酷な労働により、多くの人が命を落とした。主な対象はユダヤ人だったが、エホバの証人やシンティ・ロマ、反体制派の人々もいた。ヤーノシュの父親も5年以上もの間、何度も召集された。強制労働部隊を監督した将校のなかには暴力的なサディストもいた。ロシア戦線に送られた強制労働部隊の一部隊に配属されたヤーノシュの叔父は、現地の野戦病院で亡くなった。1944年、この強制労働部隊は、ハンガリーユダヤ人の移送計画にともない収容所へ徒歩で向かわされる。

強制労働部隊
強制労働部隊

ゲットーとはユダヤ人強制隔離区域で、主にナチ占領下の各街につくられ、そこから強制収容所へ大量に移送された。衛生状態は悪く食料配給も不十分で医療もないため多くの人々が餓死や病気で命を落とした。ハンガリーには、1944年3月ナチ占領以降、各地にゲットーが設置され、そこに集められたほぼすべてのユダヤ人がアウシュヴィッツなどの強制収容所へ送られた。ブダペストには、1944年10月の矢十字党政権下でゲットーがつくられ、約6万3000人のユダヤ人が0.25㎢の中に押し込められた。ヤーノシュもここで11月から2ヶ月あまりを過ごした。ブダペストのゲットーは、救済者の尽力もあり大量移送を免れ、1945年1月、ソ連軍によって解放された。

ゲットー
ゲットー

1944年6月、ハンガリー当局がブダペスト市内で行ったユダヤ人集合・隔離政策において、ユダヤ人は指定された約2700の集合住宅にのみ居住が許された。ヤーノシュの住んでいた建物もそれに指定された。建物の玄関にユダヤ人を示す「黄色いダビデの星」がつけられたため、この建物は「黄色い星の家(Yellow Star House)と呼ばれる。その後つくられるゲットーへのユダヤ人移住を円滑にするための措置だった。

黄色い星の家
​黄色い星の家

スイス、スウェーデンなど中立国が発行した、ユダヤ人救済のための保護証明書。(ドイツ語でシュッツは「保護」パスは「証明書」)この証明書があれば、中立国の保護の元にあると証明でき、収容所への移送を免れることができた。法的な効力がある証書ではなかったが、本物らしく立派に見えるように、顔写真、印章や署名も添えたられた。正式にみえる文書にナチスが弱いことを利用したものだった。 配布された数は3万枚以上にのぼる。

シュッツパス
​シュッツパス

スウェーデン人外交官。ハンガリーのユダヤ人を虐殺から救うため、1944年7月、ブダペストに乗り込む。「保護証書(シュッツパス)」の発行や「セーフハウス」の開設などを通して、ユダヤ人を移送から守った。ナチの「ユダヤ人問題」の専門家、アドルフ・アイヒマンは、ブダペストにいるユダヤ人の絶滅収容所への大量移送を計画するが、ワレンバーグはこれを阻止。結果的に、10万人もの命を救うことになる。

ラウル・ワレンバーグ
ラウル・
ワレンバーグ

ワレンバーグら救済者が、戦時難民委員会や中立国政府からの資金で、ブダペスト市内に大きな家を次々と手に入れ、スウェーデンやスイスの国旗を掲げて「セーフハウス」を開設。ユダヤ人を保護し、食料や医療を提供した。助けを求めるユダヤ人で殺到し、ヤーノシュたちのように、とどまることができずにゲットーに入らなければならない者もいた。

セーフハウス
セーフハウス
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